黄色い太陽

幼稚園の頃
クレヨンで絵を描くとき、太陽は黄色で描いていた。

他の人はみんな赤で書いていた。

太陽が赤に見えたことなんてない。
夕日はオレンジ色
昼間の太陽は強いてクレヨン(12色)で表現しようとすれば黄色が一番近い。

先生は黄色で良いと言ってくれたが
クラス中の周りの人は「なんで黄色なの?」と認めようとはしなかった。
黄色で太陽を描くのは私ひとりだけだった。

初めのうちは私も
「どう見ても、黄色だよ!」などと言い返していたが
絵本の太陽も、その辺のちょっとしたイラストの太陽も皆、赤だった。

幼稚園に行くようになって半年くらい過ぎてから
とうとう私も赤で太陽を描き始めた。
大勢に従わなければならないような気がした。

太陽=赤というのは共通認識的なものらしい。
そう言われればそうなんだんだけど。。。
日の丸の赤も太陽(朝日)を意味している。
日の丸が黄色だったらおかしい。
そうなんだけど、絵を描く=見たままを描くということに小さい頃はこだわっていたので
本心から納得してはいなかった。

太陽=赤についてはもう、いいけど
「大勢に流された」ということに関しては
今更だけど、その変節を後悔している。


私の意志の弱さは今も相変わらず。


でも、この先、周りがどうであろうと思想を「赤」に変えることはない。

日記(8/3)

毎日はっきりしない天気。
毎日かさが必要。
気温はそこそこある。湿度も高い。

梅雨がなかなか明けない、青空も入道雲もない夏は
この辺りでは何年かに一度くらいはある。
全国的にこうなのは1993年以来?
夏が苦手なくせに、以前はつまらなくて、がっかりしたものだ。
早く早く夏よ来てと祈るような気持ちで空を眺めていた。

今はそうでもない。
自分の過ごしやすさが第一になってしまい
周りの子供たちが海やプールに行けなくて文句を言っていようが
米農家の方々がやきもきしていようが
夏祭りにかけている(何を?)知人が青ざめていようが
どうでもいい。
空を見上げて、「ああ、今年はそういうつもり(?)なんだね」と思うだけ。


つまらないという気持ちは確かにあるし
その季節らしさを楽しみたいという気持ちもあるけど
それは私の中ではそんなに重要なことではなくなった。
いろんなことへの関心が薄くなったのはあまり良い事ではないかも知れない。



先日、職場でとある抽選に外れた。
当たる人のほうが多い抽選に外れた。
外れたときに「ふん!やっぱりね」と思った。  ←これがいけない。
外れたメンバーは私の主観では、いかにも…という感じ。
考え方の傾向と運の良し悪しは、やはり関係あるのかもしれないと思った出来事だった。

それとこの職場での最初の選択と
それとは全く関係ないその後の行く末も
すべて本人が選んだことなのに、
初めにAを選んだ人は、それぞれ違う経過を辿って
同じ方向へ進むという法則?も発見。
(わかりにくいかもしれない。いつか機会があれば詳しく書くかも)

日記(8/8)

昨日は立秋
もう暦の上では秋
夏は来なかった。

天気予報では現在、ぐずついた天気をもたらしている前線について
秋雨前線と呼ぶには早いし、梅雨前線とももはや言えない…などと言っていた。

今週はばたばたして落ち着かなかった。
無駄な動きもあった。


ところで
知人と話しをしていて、その話しには1→2→3の段階があって
3に持っていくべく話をしているのに
どうでもいい、1のしかも枝部分に引っかかって、
そこから話がそれ、話しが進まない人がいて、いらいらさせられる。
話す側が下手だからとは思えない(同じ被害?に何人もあっている)

例えば
新型インフルエンザが隣県の◎◎で発生した。
関西から来た修学旅行の生徒からうつったと、ニュースでやっていた。
という話し。
新型インフルエンザこわいね~という結論に行きたいのに
「修学旅行?なんでこっちを選ぶの?」
「誰が決めたの?」
「なんで今の時期に修学旅行するの?」
そんなの知るか!
挙句の果て
「私のときは何月で~そんで●●さんがどうしてこうして~」
と自分語りが始まり、
「あ、●●さんはお菓子屋で~」
「ねえところでおなかすかない?」
「◎◎屋まずいよー」
と別の話し、しかも不平、文句を必ず入れる。
こんな感じ。

数人で話していて、誰かが話がそれたことを指摘されると
○○ちゃんが××の話しをそもそもするからだよと、人のせいにする。
悪意はないと思うので、たぶん、頭が悪いのだろう。

太宰

今年は生誕100年ということで、映画やテレビ、雑誌等でも
太宰治やその作品が度々とりあげられている。
昨日もチャンネルを変えながらテレビをみていたらどこかでやっていた。

太宰治は高校生~20歳代前半くらいまでよく読んでいた。
なんだか知らないけれど太宰の作品は人を引き込む力があるような気がする。
引き込む力というか…適切な表現かどうかは別として
「死にたい」人が読むと本当に死にたくなるか
あるいは死ぬのがばかばかしくなるか…
ある一文にはものすごく共感できるけど
一方で破滅、支離滅裂
うまく表現できないけれど、惹かれるものがあるのは確か。

生誕100年ということで別冊宝島名作クラシックノベルの「太宰治」を
つい買ってしまい、久しぶりにこの夏また太宰治の作品を読んだ。
昔読んでいた頃もその年齢相応の理解はしていたつもりだが
今読み返すと、また違った感想を持つ。

長年疑問に思っているのだが
「走れメロス」は他の太宰の作品とは明らかに毛色が違う。
物語の最後に「古伝説とシルレルの詩から」と書かれているので
材料は他のものを使ったにせよ、ではなぜこのような話を書こうと思ったのか…
(だってあの太宰からしたら「偽善」と言いそうな話では?)
…と思っていたら、
檀一雄とのエピソードが発端なのかもしれないらしい
(酒代の支払い→壇を人質に)
↑これが本当だとすれば、他の太宰作品から窺える太宰像とあまりかけ離れていない
叶わぬことだが
なぜこれを書こうと思ったのか? と
今はこの作品をどう思っているのか?は太宰本人に聞いてみたい気がする。

背景が暗いけどなんだか希望がある「ヴィヨンの妻」も好きだが
一番好きなのは「富嶽百景」
他の作品を読んでから富嶽百景を読むと、なんだかほっとする。
(富嶽百景は中期の作品)

太宰治はどうしようもない死にたがり屋で、
心を病んでいると察せられる文章が散見される。
不器用。
それでも内面の描写には共感部分も多い。 
やはり不思議な魅力はある。
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