神の旅

神の旅
旧暦10月、神々が出雲大社に集まるために旅立つということ。
冬の季語。(広辞苑より)

神様方が出雲に集まるのは人間達の縁結びの相談のためと言われている。

出雲へ集まる神様の話とは別に、旧暦の十月は
田の神様が、山に帰って行く月だともいわれている。


神在祭(かみありさい)
旧暦10月10日 
古代の神衹祭祀制度は十月が空白になっている。
これは出雲で十月に御忌(おいみ)祭が行われるからである。
「国作りの神」である大国主大神が出雲を治められていた。

日記(10/3)

また前髪が邪魔になってきた。
イライラする。

来年の手帳が店に並んでいて
少し見てみたが、ほとんどが月曜始まり。
もう月曜始まりが主流なのだろうか。
カレンダーは日曜始まり(そもそも一週間は日曜始まり)なので
月曜始まりの手帳は見づらいと感じる。
パッと見て曜日や日付を間違いそうになる。
土日が同じ並びの方が、休日の予定を書き込みやすいというのはわかる。
でも、やはり私は日曜始まりの手帳が欲しい。

日記(10/8)

三連休、ちょっと用事があって実家に帰省。
用事そのものは楽しく済んだ。
ねじりほんにょ(本物)も見ることができた。
新幹線駅への道の途中にある田んぼにはたくさんの真雁がいた。
他所の家の柿はたくさんなっていたが、家のは少しだけだった。
去年大豊作だったので今年は少ないのかもしれない。
楽しい連休があっという間に終わってしまった。

カーネーションをお好み予約していたら
クソ朝ドラの総集編に反応して録画されていた。
帰宅して作動していることに気がつき、慌てて取り消しした。
ものすごく不愉快。

元横綱 輪島の輪島大士さんが死去

元横綱 輪島の輪島大士さんが死去
2018年10月9日 11時21分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181009/k10011664251000.html

大相撲の元横綱 輪島の輪島大士さんが8日、亡くなったことがわかりました。70歳でした。
輪島さんは昭和23年に石川県七尾市で生まれ、日大で2年連続で「学生横綱」となり、
昭和45年の初場所で幕下付け出しで初土俵を踏みました。
その後、スピード出世で番付を上げて、昭和48年の夏場所後、25歳で第54代横綱に昇進。
学生相撲出身では初めてでした。
左を差してからの強烈な下手投げは「黄金の左」と呼ばれ、
3年前に亡くなった日本相撲協会の前理事長の横綱 北の湖と白熱した対戦を繰り広げて、
「輪湖時代」と呼ばれ、14回の優勝を果たしました。
そして、昭和56年の春場所を最後に現役を引退し、年寄名跡の1つ、「花籠」を襲名して後進の指導に当たりました。
しかし、日本相撲協会の規定に違反して年寄名跡を借金の担保に使っていたことから、
昭和60年12月に廃業し、その後はプロレスラーやタレントとして活動しました。
関係者によりますと、輪島さんは8日、自宅で亡くなったということです。

相撲ファンは
輪島さんが亡くなったことについて、東京 両国の国技館周辺で聞きました。
64歳の男性は「当時は珍しい金色の締め込みをつけるなど昔からの慣習にとらわれず、
チャレンジを続けていたという印象を持っています。
まわしにこだわる取り口も好きで亡くなってしまったことは残念です」と話していました。
70歳の女性は「国技館で観戦するなど応援していました。
力強い相撲は華やかで当時の相撲人気を支えた1人でしたが、
亡くなってしまったことを受け入れたいと思います」と話していました。
70歳の女性は「現役時代、体がきれいで取組をテレビで見ることを楽しみにしていました。
亡くなったのはショックです」と話していました。

輪島さんの出身地でも悼む声
出身地、石川県七尾市では、輪島さんの死を悼む声が聞かれました。
50代の男性は「私にとってはスーパースターで憧れの存在でした。
子どものころ相撲大会に参加するときには相撲の取り口をまねていました。
また、元気な姿を市民の前に見せてもらえると考えていましたが、
亡くなったと聞いて残念でなりません」と話していました。
80代の男性は「地元の人ですから当然応援していました。
横綱といえば相撲の頂点ですからとても評価しています。亡くなったと知って残念です」と話していました。

横綱 白鵬「もっとアドバイスもらいたかった」
元横綱 輪島の輪島大士さんが亡くなったことについて、
横綱 白鵬は巡業先の静岡県東伊豆町で取材に応じ、
「稽古のあとに聞き、びっくりしました。輪島さんが果たされた14回目の優勝の時に、
同じ金色の締め込みを着け、敬意を払いました。本当に親しく、かわいがってもらいました。
もっと長生きして酒を飲みながらアドバイスしてもらいたかったので、悔いが残ります」と話しました。
そして、「『黄金の左』という絵に描いたような左の下手投げをビデオで研究してきましたが、
実は右からの攻めが強く、左からの投げが決まる。
われわれにとって見どころがたくさんの名勝負をしてきた先輩横綱でした。
歴代の横綱たちと天国で酒を飲みながら、見守ってほしいです」と悼んでいました。
また、白鵬は左からの上手投げ、輪島さんは左からの下手投げが得意で、
このことについて輪島さんと話した際、「輪島さんは『白鵬と自分の投げはふたつともいい投げだ。
でも自分のほうが下手だ。下手投げだから。白鵬は上手投げだから
上手な投げだ』と話していた」というエピソードを紹介しました。

元横綱 石山五郎さん「相撲界では異色」
輪島さんと同い年で、ともに横綱として昭和の大相撲を盛り上げた元横綱 三重ノ海の石山五郎さんは
「2年前に名古屋で偶然会ったのが最後で、そのとき向こうは咽頭がんの影響で声が出なかったが、
とても元気だったので、亡くなったと聞いてびっくりした」と話しました。
現役時代は幕内で43回対戦し、輪島の27勝、三重ノ海の16勝で、
「とにかく腕力が強かったし、左を差してからのすくい投げは強烈だった」とその強さを振り返りました。
そのうえで「相撲界では異色の人だった。ホテルから部屋に通うなど、考えられないことをしていた。
そういうことをやりながら、結果を出していて、うらやましく思うこともあった」と型破りな人柄をしのんでいました。

元大関 増位山太志郎さん「天才だった」
大相撲の元大関、増位山太志郎さんは、輪島さんとの幕内での対戦成績が8勝30敗と大きくリードされました。
増位山さんは「左を差されて同じ形で負けることが多かった。右からの強烈なおっつけや左を差して
『半身』で攻める独自の取り口を磨いて横綱に上り詰めた輪島は天才だったと思う」と振り返りました。
そのうえで、「もう1回会って話しをしたかった。
同じ時代に切さたく磨したライバルがいなくなることはさみしい」と話していました。


元横綱輪島大士さんが死去 70歳、「黄金の左」
[2018年10月9日17時29分]
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810090000300.html

大相撲の第54代横綱輪島で、北の湖とともに輪湖時代を築いた
輪島大士氏(本名・輪島博)が死去したことが9日、分かった。70歳だった。
1948年(昭23)1月11日、石川県七尾市生まれ。日大3、4年時は連続学生横綱。
花籠部屋に入門し、70年初場所幕下付け出し(60枚目格)で初土俵。73年名古屋場所で横綱に昇進。
「黄金の左」を武器に優勝14回。ライバル北の湖と輪湖(りんこ)時代を築いた。
81年に引退し、花籠部屋を継承。
しかし、85年に花籠名跡を担保に借金したことで日本相撲協会を離れた。
86年に全日本プロレス入門。88年の引退後は学生援護会アメリカンフットボール部の総監督、
タレントなどでも活躍した。
13年12月に咽頭がんの手術を受けたが、翌14年には高田川部屋へ、
二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れ、筆談に応じるなど元気な姿をみせていた。
第55代横綱で、日本相撲協会の理事長を務めた北の湖敏満氏は15年11月に亡くなっている。

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ご冥福をお祈り申し上げます。

小学生の頃、相撲を見るようになったきっかけは輪島だった。
当時貴ノ花(初代)の方が小学校でも人気があったが
私は輪島だった。ごくたまに北の湖派もいた。高見山も子供に人気があった。
輪島が引退し、その後若嶋津のファンになり、若嶋津も引退し、
若貴時代になって相撲を見ることをやめた。
輪島は引退後にトラブルを起こしていたが、それでもちょくちょくテレビに出ていた。
タレントとしての輪島も嫌いではなかった。





日記(10/12)

連休明けの今週は長かった。
友達がこの前の連休に栗駒山に紅葉を見にいったそうだが
中国人がたくさん来ていたらしい。
ローカルニュースでも言っていた。
紅葉シーズンになり平日でも3000人くらい訪れているが
今年は特に外国人が多く、半数を占める日もあるという。
確かに、帰省した時に駅にもいた。

紅葉シーズンだが、「紅葉を見る」という目的でどこかに出かけたことはない。
出掛けた先でたまたま見事な紅葉をみることができた、ということは過去にはあった。
栗駒山の紅葉は一度も見たことがない。
山道への乗り物は苦手なので今後もないと思う。

日記(10/13)

今朝は冷え込んだ。
昨夜の予報で冷え込むと言っていたので冬の布団を出した。
カバーはまだ薄手のもの。
夜のうちからもう寒く、布団をはいでしまうこともなく、途中で暑くなることもなく
朝までぐっすり。
暖かい布団が心地よかった。
今日は天気が良かったので夏用の肌掛けと夏用の綿毛布を洗濯した。

新朝ドラが始まって2週間経った。
録画して観ているが、今回のはまあまあ面白く観ている。
前作と比べると明らかに面白い。
ただ、心配になる場面で週をまたぐのはちょっと嫌かもしれない。
萬平さんを史実通りに描くと、困難続きなので、そこはマイルドにしてくれることを願う。
ヒロインも相手役も今回は不快ではなく、それだけでうれしい。
ダブルヒロイン?かという位、福ちゃんも萬平さんもかわいらしい。

日記(10/19)

日没がずいぶん早くなったし寒くなった。
朝晩は小さな電気ストーブをつけている。

空気が乾燥しているせいか
耳の中も鼻の中もなんかカサカサしている。

昨日からブログをSLL化した。
http:~がhttps:~になった。
特に面倒なことはなく管理画面のブログの設定から「SLL化する」のボタンを押しただけ。
今は旧アドレスからでも自動的に転送されるようだが
一時的な転送なので、もしお気に入りに設定している方がいたら(いないとは思うが)
最新のhttps付きの方で設定し直してください。

日記(10/20)

席埋め?のために頼まれてある講話を聴きに行ってきた。
1時間強、まあ飽きずに、時計を見ることもなく聴いていた。
時々集中は途切れてよそ事を考えたりもしていたが。

学生の頃に学んだテーマで、興味はあるものの、今は全く別の仕事をしていて
やりたいともあまり思わないことではあるが、
その大学に再度入学して同じことを学ぶ、という設定の夢を今年になってから三度ほどみている。
今日はその夢の中の気持ちに近い気持ちになった。
ちょっと嫌だなという感情と、今なら前より深く学べるかもしれないという気持ち。

土用

土用は本来は年に4回あり、立春、立夏、立秋、立冬前の
18~19日間(入りの時刻による)を土用と言う。

土用の「土」は五行の「土」のこと
春は木
夏は火
秋は金
冬は水
としてそれぞれの季節の終わりに土がある。
各期はだいたい73日+土18日~19日で1年がほぼ四等分される。

土とは物を変化させる作用を持ち、「用」は働きの意味を表す。
それぞれの季節を土用が変えるという意味。


暦によると昨日10月20日は土用入りだった。
立冬は11月7日。
(年によって変わる)

日記(10/23)

さっきも小さな地震が来たが、昨日の夜も来た。
またこの辺の地震が増えてきたような気がする。

この前、日曜始まりの手帳が少なくなったと書いたが、
今日帰りに覗いた大きな本屋さんの手帳コーナーには日曜始まりのものが結構あった。
店によって違うのかもしれない。

本屋のついでにキャンドゥにも寄ったが
猫のカレンダーや手帳コーナーがあった。
私は猫グッズが好きだが、あくまでもシルエットやイラストの猫ものが好きなのであり、
その猫コーナーは写真の猫だったであまり興味はないけれど、ちょっと立ち止まりかけた。
だが、猫の名前が「すずめちゃん」で、ぎょっとして足早に立ち去ってしまった。
その猫自体はかわいい。でも「すずめちゃん」という名に良い印象が無くなった。
昨日も録画のまんぷくを観ていて、
ヒロイン元同僚で友人の出産予定日が7月7日というシーンで悪寒が走ってしまった。
ここまで拒否感が重症化するとは自分でも思ってもみなかった。
早々にアレの視聴をやめるべきだった。

仙台市長「パンダいつでも大歓迎!」貸与実現に期待

仙台市長「パンダいつでも大歓迎!」貸与実現に期待
郡和子仙台市長は23日の定例記者会見で、中国から日本へのジャイアントパンダ貸与に向け、
日中両国政府が基本合意する見通しとなったことに関し「(貸与が)現実味を帯びてきたことは大変うれしい。
いつでも受け入れられるよう態勢を整えたい」と語った。
郡市長は「東日本大震災後、被災地の子どもたちを励まそうとパンダの受け入れ準備を表明した。
復興道半ばの東北にあって子どもたちは待ち望んでいるし、その声が大きいことも事実」と意義を強調した。
 市八木山動物公園(太白区)の飼育環境については「パンダ園舎は具体化していないが、
中国で毎年開かれるパンダの繁殖会議には園長らが出席している」と準備状況を説明。
「日中首脳会談でどんな話になるのか見極め、国と連携しながら進めていきたい」と述べた。
 関係筋によると、安倍晋三首相の25日からの訪中に合わせ、
両国が貸与に関する文書に署名する方向で調整が進んでいる。
受け入れ先は八木山動物公園と、神戸市王子動物園が候補になっている。
2018年10月24日水曜日
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201810/20181024_11005.html

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パンダ話まだ消えていなかった。
パンダ反対。いらない。

”国内最大級のコメ輸出”出発式 宮城 登米

”国内最大級のコメ輸出”出発式 宮城 登米
2018年10月25日 12時32分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181025/k10011685061000.html

コメの産地と知られる宮城県登米市から、国内最大級となる900トン余りのコメが輸出されることになり、
その第一陣がアジアやアメリカに向けて出発しました。
これは国内のコメの消費が減少するなか販路拡大につなげようと、
JAみやぎ登米が行うもので25日の出発式では、関係者がテープカットを行ったあと、
第一陣として13トンの新米を積んだトラックが出発しました。
輸出されるのはこの秋に登米市で収穫された「ひとめぼれ」合わせて938トンで、
香港やオーストラリアなど5つの国と地域に輸出されます。
単一の農協の輸出としては国内最大級だということです。
輸出されるコメは、農薬と化学肥料を通常の半分以下に抑えたブランド米で、
香港では日本の2倍近い価格で販売されることになります。
JAみやぎ登米の榊原勇組合長は「農家の生産意欲にこたえるために、
価格が高くても海外の人たちに食べてもらえるよう関係機関と取り組んでいきたい」と話していました。

日記(10/26)

ようやく金曜日。
午前3時半過ぎに少し大きめの地震が来た。
2、3分位前から目を覚ましていたのでそれほどびっくりはしなかったが
その後テレビで震度を確認したり、メールのやりとりをしたり、
すぐには眠れなくて、今日は日中眠かった。

清正の虎退治 朝鮮側に記録

清正の虎退治 朝鮮側に記録
2018年10月25日
https://www.yomiuri.co.jp/chubu/news/20181025-OYTNT50000.html

豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)の際、秀吉子飼いの武将・加藤清正が虎狩りをした様子が、
当時の朝鮮人の日記に記述されていたことがわかった。
「清正の虎退治」については朝鮮から虎の肉を届けた清正に秀吉が宛てた感謝状など、
事実を裏付ける史料はわずかしか残されていない。
専門家は「虎狩りの日付や様子、理由をほぼリアルタイムに伝える貴重な史料だ」と評価する。
日記は、朝鮮王朝時代の在野の文化人・呉希文(オヒムン)が、
秀吉軍の侵攻から1601年までの9年間、避難生活のなかでつづった「瑣尾(さび)録」。
1962年に韓国で出版されたもので、名古屋市千種区の元中学教諭栗本伸子さん(85)らが
8年かけて翻訳、自費出版し、虎狩りの記述が見つかった。
1595年3月4日付の日記は、呉希文が郡役所の報告書や知人の「趙希軾」から入手した情報として、
2月24日に「賊」が軍を総動員して虎狩りに出掛け、虎2頭を捕らえた、という内容。
同3月12日付では、この虎狩りについて、「賊将清正」が大事にしていた愛馬を食い殺されて激怒し、
軍勢を出して虎を捕らえた、などと詳しく記していた。
清正は当時、釜山の北東約30キロの西生浦城を守備しており、虎狩りはその付近で行われたとみられる。
朝鮮出兵時の虎狩りを巡っては、秀吉の側近が秀吉の薬用に虎の肉や内臓を塩漬けにして送るよう
武将らに指示した書状や、虎の肉が届くたびに秀吉が武将らに宛てた感謝状が残されている。
清正宛ての感謝状も1通あるが、捕獲手段や時期、場所などは不明だった。
当時の秀吉軍は明・朝鮮連合軍に対し劣勢だった。
清正が持ち帰ったと伝えられる虎のあごの骨を所蔵する名古屋市秀吉清正記念館の朝日美砂子学芸員は
「将兵に厭戦気分が広がり、『太閤秀吉様のため』とは言いづらく、
『愛馬の敵討ち』と偽ったのだろう」と話す。
清正宛ての感謝状は4月12日付で、瑣尾録にある虎狩りの約50日後にあたる。
朝鮮出兵に詳しい九州大学の中野等教授(日本近世史)は
「瑣尾録に記された虎が秀吉に届けられた可能性が高い」とした上で、
「武将たちは各地で虎の被害に遭っていた。秀吉に献上するだけでなく、
駆除目的の虎狩りもあったのではないか」と話している。
 
◇清正の虎退治 後の初代熊本藩主・加藤清正(1562~1611年)が朝鮮出兵の際、
馬や小姓をかみ殺されたことに怒って虎を捜しだし、自ら仕留めたという伝承。
江戸時代後期の「絵本太閤記」で紹介されたほか、
浮世絵や芝居などで盛んに取り上げられ、勇猛果敢な清正像が定着した。
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