八重の桜の新選組

今年の大河の中の、新選組。
私の周囲の新選組ファンにはいまひとつ評判が悪い。
扱いが悪いというのではなく、見た目として納得できないそうだ。
特に斎藤一。
酷い言い方をする人の口を借りると
「セリフがなくても、立ち姿だけで下手だということがわかる」
「あの刀捌き、あの姿 許せない」
「小さすぎる」
…だそうだ。

確かに、斎藤一はかっこいい人が演じることが多いので、
今年の人は んん…と微妙ではあるけれど、残っている写真もそんなにかっこいいというわけでもない。
私は、小さいということ以外、特に気にならない。
殺陣が微妙なのは彼だけではない。


でも、ここ2、3回の中のわずか何分かの新選組シーンはなかなか良いと思う。
数年前の大河の「新選組!」とその後の正月ドラマ「新選組!!」で描かれていた時期の
間を補完してくれている。

前回の土方と斎藤が訣別するシーンのセリフが特に良かった。

土方「仙台でもうひといくさだ」「まだ榎本艦隊がある!」
斎藤「私は戻ります」
土方「戻る?どこにだ!?」
斎藤「会津に」
土方「ばかな!」
土方「この分じゃ2日か3日で城下まで攻め込まれるぞ!」
斎藤「それでも会津は戦うでしょう ならば新選組も共に戦うまで」
土方「この戦 待っているのは籠城戦だ。援軍がくる当てもねえ 死にに帰るようなもんだ」
土方「いいから一緒に来い 斎藤!」
斎藤「今、会津を …今、会津を見捨てるのは義にあらず。」
「生死を共にした仲間を捨てるのは…(誠の旗を見て)…士道に背きます」
土方「お前…会津にほれた女でもできたか?」
斎藤「ええ、相手は女ではなく、愚かなほどにまっすぐな会津という国です」
土方「どうやって戦う気だ。銃も弾も底をつきかけてるぞ」
斎藤「弾が尽きても…(刀を握って)…まだ刀がある!」
土方「そうか…ならば俺は俺の戦をしに行く」
斎藤「はい」

八重の桜


まだ刀がある!は
「新選組!」の中の斎藤が誠の旗を持って
「この旗がある限り新選組は終わらない!」と叫んでいたシーンを思い出す。

「ばかな!」「死にに帰るようなもんだ」と言った土方は死に、
会津に殉じるつもりの斎藤は大正まで生きるのだから面白い。

斎藤一はかっこよく描かれることが多いから、見た目もかっこいい人を望むファンが多いというのは
わかるような気もする。
イメージがなんたらと言ったら、私個人の感覚では薩摩の中村半次郎(桐野利秋)役も微妙。
現在は北三陸駅長役の人が演じた桐野はかっこよかった。


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八重の桜を見て思うのは
会津と第二次世界大戦の日本はよく似ているということ。
新政府軍は連合国軍に似ている。
正義と信じていたのに、いつのまにか標的になっていたこと、
最後の一兵まで戦おうとしていること等々。
前回放送の6/23は沖縄戦終結の日でもあるので、少年兵達の悲劇も重なる。

でも、現代から見て愚かだったというのは簡単だけど
会津が、日本が、間違っていたとも思えない。

今年の大河、主人公が戦う気満々なのがいい。(戊辰戦争終了後、ころっと変わる可能性はあるが)
変な反戦主義者も今のところ出て来ていない。
NHKは巧妙に思想を押し付けてくるので
戦の悲惨さを見せつけて、見ている人に考えさせるやり方なのかもしれないけど
ぺらぺらとセリフで押し付けられるよりはいい。
今の価値観ではなく、当時の価値観で描いてくれた方がいい。




NHKステラ(2004年)
童門冬二のメディア瓦版538回より

スパイの道を歩くピンさん
数字の1のことをピンといいます。〝ピンからキリまで〟というのは、
●1から10まで
●ハジメからオワリまで
●最高から最低まで(逆の場合も)
と解釈されています。新選組三番隊(組)長斎藤一(はじめ)のことを
ぼくが〝ピンさん〟とよぶのはこのためです。
「斎藤一は根っからのスパイだった」という研究者の説があります。
父は明石藩(兵庫県)の足軽でしたが、御家人の株を買って家臣になりました。
しかし与えられた仕事はスパイでした。これが息子の一にもひきつがれたというのです。
一は江戸でくらしていましたが、事件をおこして京都にいきました。
やがて新選組にはいり、すぐ幹部になりました。
土方歳三あたりにスパイの特性を発見されたか、あるいは、
「オレにはこういう特技がある」と自分から売りこんだのでしょう。つまり、
「新しくタチあげた組織である新選組には、諜報活動が必要だ」と主張したのです。
かれを知るひとは、
「無口・背が高くやせている・目が光り眉毛が濃い・一見コワい・
いつも清潔でアグラはかかない・酒が大好き」とその性格を分析しています。
ドラマ(※大河ドラマ「新選組!」)ではオダギリジョーさんがそういうニヒルな感じを
よく出していますね。鳥羽・伏見の戦いのあとは、会津藩と行動をともにしています。
「松平容保が仲人をして、藩の重役の娘と結婚した」といわれています。
会津落城後、さらに北へいって戦いぬくという土方に、
「会津藩は京都で食いつめ浪人のオレたちのめんどうをみてくれた恩人だ。
それを見捨てるのは誠の道に反する」といって踏みとどまります。
そして会津が流された斗南(青森県)にも同行します。
明治4(1871)年には警視庁にはいり探偵になりました。
明治10(1877)年の西南戦争でも諜報員として活躍しました。
根っからこういう仕事が好きだったようです。これは、
「ものごとをなしとげるのにはキレイゴトだけではすまない」と、
進んで泥の川に身を投ずる〝スパイの美学〟です。
大正4(1915)年に71歳で死にました。
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